ファッションの専門学校を卒業した僕は、地元札幌を離れ東京で就職した。
友達も多かったし、本当は生まれ育った街から出たくはなかった。
でも服の仕事なんて北海道には販売員くらいしかなく、デザイナーを目指すには上京するしかなかった。 (これが北海道の問題点の一つだと思う)
面接のため日帰りで東京に行くのはザラで、金銭的にもなかなか就職活動は大変だ。
そんな中、僕の場合は運良くインターンで行ったアパレルメーカーに入ることが出来た。
今考えれば本当にラッキーだった。
「健康第一」「感謝の気持を大切に」 両親からもらったメッセージを持って、僕の上京物語がスタートした。
東京での生活が始まって一ヶ月くらいが過ぎたある日。
朝早くに珍しく姉からメッセージがあった。 「お父さんの容態が急変しました」 父は僕が上京する少し前から検査のため入院していた。 慌てて電話をかけ直すと姉はもう会話にならないくらい泣いていた。 僕は状況が把握できず、頭が真っ白なままとりあえず仕事に向かった。 その日もまだ慣れない仕事で少し残業になり、札幌に帰るならそろそろ空港行かなきゃ... 社長に相談しようとした瞬間、僕も泣き崩れた。 すぐに浜松町からモノレールで羽田へ。 空港内も全力で走った。 なんとか最終の飛行機に乗り込み、札幌へと向かった。 奇しくもその日が僕の社会人としての初の給料日。 初任給は札幌への航空チケットに変わった。 札幌についたのは深夜。 病院につくともう人工呼吸器に繋がれた父とすぐそばに兄、 姉と母、家族全員が待っていた。 信じられない光景だった。 結局、父は僕のことを待っていたかのように翌朝還らぬ人となった。 享年65歳、定年退職してすぐの出来事だった。 やっとこれから自由になれるっていうところだったのに、本当に無念すぎる死だった。 でも、父はなんとなくそうなることも想定していたような気がする。 入院する前に家族全員で写真を撮ったときに、僕はなんかひっかかっていた。 「なんだよコレ、まるで最期みたいじゃん」と。 父は僕たち兄弟に「健康美」という漢字の名前をつけるくらい健康には気を使っていた。 毎年正月に書いていた恒例の書き初めはその年が最後になった。
どんなに体に気を使ってても、人はいつか死ぬ。
計画的な父の血を受け継いだのか、それから僕は自分が死ぬまでのプランを考えるようになった。 「人間の寿命は80歳くらいだから、40歳で死んでも後悔しないように人の倍のスピードで動こう。 そして母親が亡くなった父親の歳になるまで=自分が28歳になるまでに札幌に帰ろう。」 そう決意して、自分の人生を40年に設定して生き急いだ。 実は無口過ぎる父とはあまりまともに話したことがない。 でも、なによりも家族のことを一番に考えていただろう父をリスペクトして、 同じく父親になった僕も家族の為に頑張ろうと思う。 「ありがとう」 これが最後に父へ贈った言葉。 あれから16年...
おかげでここまでやりたいことは全てやってきたよ。
40歳まであと3年。
平成が終わり、令和が始まる新時代に、
僕が出来ることは一体なんだろう。
Comments